コラム
暦のお話
旧暦2033年問題
日々の暮らしの中では、西暦何年であるとか、令和何年であるとか、当然のように存在する暦。たまにニュースで、今夜は中秋の名月ですとか、暦の上では、もう秋ですとか耳にされることもあることでしょう。
それらが、通常使う暦とは別に、旧暦や二十四節気といって日本人の暮らしに深く根ざす暦として存在しています。
その旧暦の仕組みに、近い将来問題が発生するのです。
なお、前提としてある程度新暦、旧暦、二十四節気などのことが、理解していないとわかりにくいかと思います。
そのあたりを、ここに書いていると本論にたどりつくのに時間を要しますので、今回は、その点は、重々ご承知くださった上お進みください。 但し、なるだけわかりやすい言葉で書こうとは考えています。
福岡県神社庁の暦、毎年神道教化の目的で、主に県内神職が常駐する神社にて頒布されているのですが、この暦や諸々の暦本に掲載されている旧暦が、西暦2033年に、その仕組みに不具合が生じ利用が難しくなる事態となります。そのお話しです。
現在は令和6年ですが、昨年令和5年が、丁度閏月のある年でした。
「旧暦の1年」が13ヶ月ある年です。
そこで、令和5年を元にまずは、旧暦のできる仕組みを考えてみます。
お手元に、令和5年の暦をお持ちでしたら、ご用意されてご覧いただきたく思います。
まず、二十四節気は、12の節と、12の中気からなり、節が節入りといいまして、節月のはじまりの日です。
暦本で、2月の節分の翌日をご覧ください。旧正月節立春と書いてあります。
暦により、立春だけ記載されたり、令和5年なら甲寅など正月節の別名である寅月が始まることが書いてあると思います。翌2月節以降はまたそのくりかえしとなります。
中気は十二節の丁度半分あたりになります。
まとめると表1のようになります。(干支は、十二支だけ記載しました)
二十四節気は、太陽に基づく暦といえます。旧暦は、月に基づく暦です。
なぜ、太陽に基づく二十四節気が、月に基づく旧暦に関係あるのか?
実は、「旧暦の月名」の命名権、その月が何月かを決めるのは、中気が持っているからです。
表2をご覧ください。
中気が雨水である月は、旧暦1月、春分となる月は2月、あとは表の順に決まります。
ただし、優先順位があり、冬至、夏至、春分、秋分(二至二分)は、優先権を持っていて、冬至のある月は11月、夏至のある月は5月、春分のある月は2月、秋分のある月は8月と優先的に名乗る権利を持つ決まりがあります。
では、令和5年を元に実際はどうか、考えてみます。
表3(表3の令和4年、5年、6年の新暦の年境界線は、おおまかな点、ご容赦ください)を見ていきます。
令和4年暮れから、令和6年の始まで16の月があります。月は、まだ名前を決めていないので、イロハ順で記号を付けておきます。新暦により、新月から次の新月までを区切ります。
まず、先ほどの優先的に名乗る権利に基づき、二至二分を先にいれます。黄色に赤い文字です。
次に他の、中気を入れていきます。そうすると、記号ホの月だけが、中気がありません、中気の無い月が閏月と言って、2回同じ月を繰り返します。
2回目の2月を閏2月と呼びます。この年は1年が13ヶ月となります。
通常は、この決め事で、旧暦を作れますが、それができなくなるのが 西暦2033年なのです。
次に、問題の2033年、令和15年で検証してみます。
表4をご覧ください。この年の前半は問題が生じないので、7月22日以降の月からの準備としました。
前回と同じく、イロハ順で、月に記号をつけ、二至二分優先で月名を書いていきますと、翌年の3月20日以前までが、おかしな状態になるのが一目瞭然ではないかと思います。
中気が無い月が3つ、中気が二つ入る月が2つ。
旧暦何月か、わからなくなりますね。おまけに旧暦の10月の場所が、無くなります。
これが、旧暦2033年問題です。
小雪と冬至、大寒と雨水、中気が同じ月に入るとその月が何月か決められません。
この問題により、大安仏滅いわゆる六曜が決められなくなります。
六曜には表5のような決まりがあります。
旧暦の1月・7月は、先勝からはじまり、2月・8月は、友引から始まります。以下表5のような運びです。
旧暦の月が変わるたびに、六曜の順番は規則に従いリセットされます。
閏月やその他の月が統一されないと、暦によって大安仏滅が違うことになるので、不都合なことが生じます。
また、中秋の名月も定かでは無いことになります。
その為、様々な説があらわれ、混乱を招く状態が予想されます。
これは、旧暦を国が管理しないためにおこるのです。
まただからといって安易に他国の暦を用いることもできません。
暦は、国旗・国歌と同じで、その国独自でなければなりません。
著者の調査では、我が国の暦は、旧暦も現在の新暦もこの国の皇国の国体を明らかにするべく作られております。同じ旧暦でも、同じ新暦でも、他国のものとは暦法は違うのです。
機会があればその解説は書きたいと思いますが、今回は、旧暦の2033年問題のご理解を深めていただければと書きました。
社日について
福岡県神社庁の暦において、掲載されている暦選日の一つに「社日」があります。
社日とは、年二回春と秋とにあり、この日、社日神が、春に山から下りてこられ秋に山へと戻られるといわれて、県内の地域によっては、神社や個人の家や、里ごとや隣組ごとに、お祀りされていたりでこの日神事が行われ、神職さんが朝から走り回っているそんな話も耳にします。
また、博多の町では、この日筥崎宮のお潮井とりが行われる日としてご存じのかたも多いのではないかと思います。
ちなみに社日は年二回あるのですが、俳諧では春の季語です。
さて、この社日、数年に一度市販の暦と、神社庁の暦で日にちが異なる現象が起きてしまいます。
実は令和6年3月の春社日が神社暦と、皆様が、年末に準備されるであろう壁掛けのカレンダーと異なる現象がおきることが予想できるのです。困りますね。
やっと本題ですが、なぜこのような現象がおきるのか。私見ではありますが考察してみたいと思います。
社日は、春分、秋分の日にもっとも近い戊(つちのえ)の日と決められていますが、これが前後同じ日数となることがよく起きるのです。
となると、こういう場合どうするのか、決めなければなりません。そこで、まずは同じ日数の場合は、前の方にすると、決められました。
これは、おそらくまだまだ原始的な天文観測の時代に決められたことでしょう。やがては天文観測も発展し、当然いろいろな問題も起き、定義も改定されていきます。(実際何度も改暦は行われています。)
太陽が春分点を通過する日が、春分の日ですが、この通過時間が当初より正確にわかるようになったと思います。
そこで、前述の定義に春分点通過時刻が、午前ならば前の戊の日、午後ならば後ろの戊の日という条件が明治14年にできているのです。より近い日がわかったからでしょうかね。
今回、ネットにて国立天文台の「暦Wiki」の中に記載があるのを見つけました。
社日の件は、国立天文台のサイトに記載の通り、当時それが国の基準になったといえるのではないでしょうか。「暦Wiki」【雑節とは~】
問題は、なぜこれが巷に広がらないのでしょう。
各種暦解説本は、どうやらここを見落としているようです。
私のてもとにあるもの数冊調べ直したのですが、すべて明治7年までの定義である、前をとる方式が記されております。
これらを見てカレンダーを作れば異なる暦はできあがりますよね。
百科辞典、広辞苑すべて書かれておりません。長く情報が更新されていないのが残念ですね。
あくまで私見ですが、このあたりが、今回の件の要因ではないかと推測しております。
(ほかに何か、理由をご存じの方はお知らせいただければと思います。)
これは、戦前ならば、国が有識者会議でも開いて検討すべきことかもしれませんが、干支についてや宗教色の強い社日は、現在国がどうこうすることはないでしょう。
ただ、伊勢神宮の神宮暦は、明治時代には我が国の唯一正式な暦ですから官製暦といえます。
現在でも神宮暦はその基準を継承し編纂されており、福岡県神社庁の暦も、現在同じ基準で編纂されております。
是非県内の社日の神様のお祀りは、神社庁暦に記された日にちで行ってください。
実はまだまだ暦がかかえる問題は社日以外にもあり、先にも書いたように、有識者で検討していただきたいことは多々ございますが、これらはまた機会があれば書きたいと思います。
暦に関する与太話。
神社で頒布されている暦。
実は、福岡県では余りなじみが無いと思いますが、伊勢神宮も暦を頒布しています。
伊勢神宮の暦は、明治の改暦以降戦前まで、この国の基準となる暦でした。
というより、一般の出版社は暦の販売ができなかったのです。
伊勢神宮の暦には、旧暦も、大安仏滅のような六曜も、ましてや九星の占いも掲載されておりません。
しかし、さすがに暦を受けた方々からの不便の声が多かったのか、近年では、別紙で六曜と旧暦が一覧表として付録となっているようです。
実は六曜を気にするのは戦後、集団就職で都会に出た人たちが結婚するころ、都内の結婚式場が日曜日に式が集中して大変なことから分散させるために考えたといわれています。
そもそも伊勢神宮の暦に大安仏滅がないですから、さほど気にする人はいなかったのかもしれません。
ですが、戦後自由に暦が出版できると、現在のように本屋さんに年末にいけば、高島暦やいろいろな占い系の暦が並んでいます。
それらは、お日柄の善し悪しや占いなど、人気のある内容が掲載されており、売り上げを伸ばすにはしかたないのですが、それが人心を惑わすということで、伊勢神宮の暦には占いなどがなく、国が暦を民間に作成させなかった理由のようです。しかし、実際は発禁を恐れずたくさんの暦が出回っていたようです。
我が国は、旧暦を用いないので、気づかれていない方も多いかと思いますが、旧暦の基準が実はそろそろ怪しくなります。その辺りは、旧暦2033年問題とネットで検索すれば出てきますが、江戸時代までは数十年から数百年に一度、暦に不都合が出てくると改暦して、整合性を整えていましたが、今では国は旧暦には知らん顔です。
しかし、明治以降まったく改暦がないかというと、、、、。
細かいことをいうと、今から100年たたないくらいの98、9年前、それまではお昼の12時に日付が変わっていたのが、夜の12時となりました。
それは、重要だ、細かくないって!? ですが、このことが、生活に影響ある改暦かどうか調べようがないのですよ。
しかし、ウィキペディアにでてくる事実。
以上頭にうかんだことを書いたので、正確か否かはしりませんよ?
だって与太話ですから。