コラム
県内神社紹介
御祖神社(足立山妙見宮)
「足立の妙見さん」として親しまれている当社は、和気清麻呂公が宝亀元(770)年に創建した神社です。妙見さま(造化三神)は、北極星・北斗七星が神格化した星霊信仰のご本尊で天空の中央に位置し、「北辰尊星妙見大菩薩」として現在も広く信仰されています。
創建の経緯は、神護景雲三(769)年、和気清麻呂公(以下、公)は勅命を受け、皇位を奪おうとした僧 弓削氏道鏡の野望を阻止します。道鏡の怒りをかった公は、大隅の国へ流されるのですが、途中、船が豊前国宇佐の海浜に漂着した時、道鏡の追ってから足の筋を切られ、動けなくなったところ、数百頭の猪が現れ、公を宇佐神宮へと導きました。「企救郡竹和山の麓にある石川村(現在の湯川町)に霊泉があり、その湯に浴すれば直ちに足の傷は癒える」とのお告げを受けた公は宇佐神宮の神馬を借りて、石川村の地をたずねました。そして神託通り霊泉に浴すと、不思議にも足の傷はたちどころに癒えたのです。これが「足立山」の名の起こりと伝えられています。足が治った公が足立山に登り、天皇の安泰と反逆者がいなくなることを断食して祈ると、造化三神が降臨し、「汝の願い、聴き入る」とのご神託がありました。翌年、光仁天皇が即位して天皇家は安泰となり、道鏡は下野国に流され、公は平城の京に呼び戻されます。そこで公は、四男の磐梨貞瀬(出家して妙運)を足立山に遣わし、妙見宮を創建しました。
宝亀三(772)年、国司 大伴百世の助けで、葛原蜂が坂の足立に下宮「足立山平兪寺」建立し、弘仁八(817)年には、公の三男参議真綱卿が宇佐に勅使として参った帰り、下宮に父・清麻呂公の祖先である鐸石別命の神霊を祀りました。
慶長六(1601)年、下宮を現在の地に移し、明治以降、神仏分離の布告のため、上宮・足立山妙見宮並びに下宮・足立山平癒寺を「御祖神社」と改称しました。
昭和20(1945)年以降、足立山妙見宮を再称して現在に至っております。
◆主祭神は、造化三神であります、天御中主神(あめのみなかぬしのかいみ)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすひのかみ)、鐸石別命(ぬでしわけのみこと)、和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)であります。
◆氏子について
当社は江戸時代まで崇敬神社としての歴史があり、特に氏子は持っておりませんでした。明治以降、各村にあった氏神神社を御祖神社に合祀した関係上、氏子を持つようになりました。
現在の住居表示で小倉北区黒原・霧ケ丘・黒住町・妙見町・足立・足原・寿山町・山門町・小文字・大畠・下富野(一部)・熊本・神岳・明和町・宇佐町・中津口・大田町・砂津・三郎丸・片野新町・東城野町・城野団地・萩崎町・三萩野・江南町・香春口・昭和町・黄金町・片野(一部)が氏子区域となっております。
小倉城のお堀の手前東側から足立山にかけて、その区域にあたります。
◆神社の特色について
主に清麻呂公の足が良くなったことから、足の神様、健脚の神様としての信仰が強く、スポーツをされる方やいつもでも足腰が健康でありますようにと、健脚信仰が続いております。
また、妙見さまが北極星・北斗七星が神格化したお神様から、星の厄祓として八方除や星厄消除祈願、またお引越しの方除祈願など特殊な信仰が今も続いております。
ご社殿右奥は現在も薬師堂があり、六体の仏像が安置されております。神仏習合の名残を今に伝える貴重な資料となっております。
◆ご神宝について
足立山山頂より出土した古鏡が昭和37年、福岡県指定有形文化財に指定され、現在いのちのたび博物館に所蔵されております。
その他、小倉の絵師 藤井玉蘭作の造化三神画や和気清麻呂公画、江戸時代の小倉藩絵師村田応正、石南岳、石南園の絵馬が神社に所蔵されております。
到津八幡神社
北九州市小倉北区上到津に鎮座する到津八幡神社は、創祀以来1450年を数える歴史ある古社であります。
神功皇后が三韓征伐を終え、宇美の里で御子応神天皇をお産みになり豊浦宮へお帰りの時、社前の川に御座船をお寄せになりました。後に一祠を建て皇后の和魂をお祀りしたのが当社の起源といわれています。神功皇后の御霊をお祀りしたことから、人々は安産を願うようになりました。社前の川水を汲み、産湯として使われるようになったといわれています。
現在、この川は板櫃川という名称ですが、別に「産川」(ウブカワ)とも云います。また、川の付近には「産川町」という町内もあります。
◆御祭神は、応神天皇とそのお母様である神功皇后と、宗像三女神です。
◆神社の特色について
現在では、安産祈願、子安成長の祈りを捧げる方も多くいらっしゃいます。
また、「到津」という名前の由来にもあるように、神功皇后様の船が無事に到津の港(津)にたどり着かれた事から「水陸交通の安全」の神としてもその霊験あらたかです。
◆氏子について
神社下、川沿いにある大きな石灯篭は、嘉永5年(1853年)、当社が小笠原藩の氏神であり「雨乞」「日乞」の霊験あらたかであったことから、企救郡(小倉北区・小倉南区・門司区・八幡東区の一部)の各庄屋が御礼のために灯明田を添え奉納したものです。企救郡全体にかかわる「雨乞い」「日乞い」は当社を中心として行われていた事から「企救郡大社」と称されました。
文治4年(1188年)宇佐八幡大神を勧請し、現在に至ります。
一宮神社
Instagram:@ichinomiya_jinja
【鎮座地】
北九州市八幡西区山寺町12-30
【紹介】
主祭神として正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)を祀り、勝運のご利益で崇敬を集めています。また、相殿神として神倭伊波禮毘古命(神武天皇)、建御名方神、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、大歳神、事代主神を祀っています。
古くから黒崎周辺に鎮座していた王子神社、諏訪神社、大歳神社の3社を合祀し、昭和25年に社号を一宮神社と改めました。境内には初代神武天皇が御親祭を行ったとされる「神籬磐境(ひもろぎいわさか)」が残っており、古事記に記述のある「岡田の宮」の本宮と伝えられています。
王子神社は現在の一宮神社の鎮座地である山寺に鎮座していた古社で、地域の氏神として盛んに祭事が行われ、厚い崇敬を集めていました。諏訪神社は花尾城主麻生氏が山寺の東、諏訪山の地に建久年間に建立した神社で、八幡市の土地区画整理事業により昭和15年に王子神社に合祀されました。大歳神社は平安時代にはすでに存在していたようですが、詳細は分かっていません。日本三代実録に記述がある「筑前国大歳社」がこの大歳神社と伝わっています。昭和25年、三菱化学の工場拡大により氏子ごと移転し、王子神社に合祀されました。
3社が合祀された際、「遠賀郡誌」に王子神社が遠賀郡の一宮であるとの記載があったことから、一宮神社と社名が改められました。
黒崎地区の岡田宮、春日神社と共に3社で執り行う「黒崎祇園山笠」は400年以上の歴史を持ち、県の無形民俗文化財に指定されています。